青竹雑記帖12周年の記

私が初代ブログ「青竹雑記帖」を開設して12年が経ちました。これは同時に、私がインターネットにおいて本格的に発信活動を始めてから12年経ったことも意味します。せっかくなので、自分のインターネット遍歴を語ります。(隙あらば自分語り)

私が初めてインターネットに触れたのは1998年、私が小学2年生のときでした。それだけ早い時期から触れているならば、さぞインターネット上での発信活動開始も早かったのではと思われるかもしれませんが、私が発信活動を始めたのはずっと時代が下り、大学1年生になる直前の2010年3月でした。

私くらいの年代の人ですと、早い人なら中学生の頃(2003年〜2005年頃)、あるいは高校生の頃(2006年〜2008年頃)に、個人サイトやブログを用いた発信をしていたようです。あるいは、影が薄くなりながらも、今も末永く続いているSNSの草分けともいえるmixi(ミクシィ)に参加している人も多かったようです。人によっては、これまた今もしぶとく続いている巨大掲示板サイト「5ちゃんねる(当時は2ちゃんねる)」にしけこんでいることもあったかもしれません。

しかし、当時の私はそれらを用いて発信してはいませんでした。個人サイトをYahoo! ジオシティーズに作ることもなく、はてなダイアリーやYahoo! ブログで黒歴史を量産することもなく、2ちゃんねるに書き込んだのも1回か2回ほどだけでした。mixiに至っては当時は招待制だったこともあり、そもそも招待してくれる人がいませんでした(おわり)。つまりいわゆる「ROM専」でした。中学生の頃などは鉄道運転シミュレーションゲーム「BVE trainsim」(当時は単に「BVE」、ちなみにそれ以前はもっと物騒な名前でしたが秘密にしたほうが良さそうなので秘密にします)の路線データをダウンロードして楽しんでいました。さらに、自分でデータを作ったりしていましたが、公開することはありませんでした。もし当時公開に踏み切っていたら、黒歴史として未来永劫苦しみ続けていたかもしれません。とはいえYahoo!関係が全部閉まったので、当時の我々の歴史が白歴史も黒歴史も全部まとめて葬り去られてしまいました。ネット上に出されたデータは永遠に消えないかもしれませんが、一次発信元が消滅したり、検索でもたどり着けなくなったりしてゴミの山に埋もれたりして、実質的に忘れ去られるようです。

そんな自分も、大学生を目前にして何かを発信しようと思った……のかどうか、実は自分でも覚えていません。確かあのときは、遠くに進学することに備えて、自分の近況を何らかの形で家族に伝えようと思っていたような気がします。そうしたインターネットでの発信向けに最初に開設したのがTwitterのアカウントでした。まだ出来たばかりのTwitterは、画像を投稿できなかったり、ハッシュタグに英語しか使えなかったりするなど物足りない部分も多かったのですが、余計な機能も余計なアカウントも奇怪なマイルールが横行することもありませんでした。もっとも、当時の自分はいまいち使い方がわからず、最初のうちは何かのキャンペーンの連携投稿しかしていなかったと思います。

そして2010年6月10日、はてなダイアリーに「青竹雑記帖」を開設しました。鉄道のこと、大学生活のことなどさまざまなことを書き連ねていました。長い記事だったり、短い記事だったりしましたが、毎日更新していました。当時のメインテーマは地元、西鉄電車のことでした。定期運用がなくなり、引退が近づいていた2000形の運用をずっと追いかけ、まとめていました。これに付随して、運用表などを置くために個人サイト「青竹倉庫」を開設しました。

初代の雑記帖を開設してまだ1年も経たなかった2011年3月11日、私の20歳の誕生日に、東北地方太平洋沖地震が発生しました。後にその被害の甚大さから「東日本大震災」と名付けられるその災害に接し、当時の自分は雑記帖に「大変なことが起こってしまった」と記録しています。それから1か月ほど、雑記帖では東日本地区の鉄道路線運転状況を毎日情報収集して掲載しました。

その後、自分の散歩記録をつけたり、黒歴史を書いたり、いろいろしていた雑記帖をWordPressに移したり、はてなブログに行ったり、自分のサイトでbashCMSを利用して自ら作ったり、別名義で書いたりして、今の個人サイト内にブログ風のレイアウトで静的サイトを立ち上げる方式に至りました。

ここ最近は更新頻度もめっきり落ち、もっぱらTwitterで思考を垂れ流すようになりましたが、時々はブログを書こうと思います。